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座談会Vol.2(前半)  2021年8月5日、NC108教室にて

塩見友梨奈、野村春花、西岡(山元)桂子、川野美帆、成実弘至、八幡はるみ

八幡・懐かしいメンバーが集まったので。ゼミの話でも。

川野・そうですね、大学院の頃の。

八幡・成実先生司会で。

成実・教育者としての八幡はるみについて。

八幡・ひゃー。

八幡・成実先生の「展覧会に寄せた文章」が意外だったのですよね。そういう風に映っていたのかって。恥ずかしくて。笑

成実・僕、すごく楽しかったですよ、大学院の染織ゼミ。学生も面白かったし。

八幡・みんな真面目やから、一生懸命でしたよね。

成実・そのあたりゼミの話などしながら、八幡先生像に迫っていくという感じでいきましょう。このなかで一番の先輩は川野さん?

川野・はい、そうです。

成実・川野さんはいつ八幡先生と出会われたの?

川野・私は一期生で、一年生のときですね。活躍しているかっこいい女性に出会ったのは、八幡先生が初めてかもしれないですね。

八幡・ひゃー。

成実・新しく四年制大学になった時期で、いろんな先生がいましたよね。

川野・面白かったですよね。

八幡・面白かった、熱かった。

成実・その頃はまだ大学院ゼミはなくて。少し後という記憶ですね、ぼくが見るようになったのは。西岡さんの学年くらいからですか。

西岡・私誰と一緒やったんですかね?あっ橋本さんとか権田くんとかですね。

成実・権田くんってあの刺繍やっていた男子?

西岡・先生すごい。長野県の... 不思議な人やった。

成実・西岡さんも結構不思議系でしたよね。笑

西岡・そうでしたか?笑 恥ずかしい。普通でしたよね?

成実・てっきり、アーティストっていうか、アートの方にいくのかなと思っていたけど。

八幡・出会ってしまったものね、彼と。

西岡・食うて行かねばならんということで、こういう感じになりました。

八幡・意外と恋愛体質ね。

成実・結構アナーキーだったよね、西岡さん。作るものも、発言も。

西岡・ちょっととんがっていましたね。

成実・塩見さんの学年はたくさんの院生がいましたよね?

塩見・そうですね、多かったです。

西岡・なんかそう、旅行に行ったっていうのは?

成実・ゼミ旅行で山形行きましたね。

八幡・楽しかったー

成実・あと石見銀山にも行きましたよね。

八幡・あれは許斐さんと清水さん、大高先生。ほんの2年間ほど、行っていましたね。

八幡・宮田さんが東北の旅行の計画係でね。

塩見・そうですね、宮田さんが全部やってくれて。

成実・パンフレットとか作ってくれて。

塩見・写真出てきましたよ。旅館でみんな囲んでお膳の前で。

八幡・最終日牛タン食べて。でもちゃんと見ましたよね。オリエンタルカーペットとか、菊池保寿堂とか、天童木工とか。

成実・そして、このなかで一番学年が下なのは野村さん。大学院ゼミで「京都スタイル」というイベントを堀川丸太町にあったモーネ・ギャラリーでやったとき、野村さんは大学3年生。学部生ながら参加していた。

八幡・なんか筆記係かなんかしていたよね。

野村・手染め屋さんのサポートみたいな。院生の中に混じらせてもらって、そこにいたのが大井さんとか...

成実・本当は院生に作品を出して欲しかったのだけど、院生の人たちが、「私たちはいいです」って出してくれなかった。

西岡・なんかリーフレット読みました。そのときの二人(成実先生と野村さん)の会話が載っていて。

成実・あの時は、京都からファッションやデザインを発信していこうという趣旨で、京都のデザイナーに声をかけて。プロと一緒に院生も発表しようよって言ったけど、野村さんだけが参加した。

野村・そこで院生の姿を目撃して、すごいなぁって。

成実・「作品を売ろう」っていうことをテーマにして、展示会、ファッションショー、トークをして、販売まで。

八幡・京都の中でネットワークを作っていこうっていう。

川野・私ハンカチで出させてもらいました。

八幡・商品部門もあってね。

西岡・それはもう続いてないのですか?

成実・あの年だけで終わっちゃいましたね。あの頃、大学院の修士の作品発表とか見ていても染織はレベル高かったですよね。全学で一番面白かったんじゃないかな。

八幡・卒展賞もらったのよね。

塩見・そうでしたっけ?

八幡・あなたたちが大学院のとき。学部に与える賞だけど、学部とはいいながら、大学院生も学部もゴッチャにやりたい放題で。

塩見・あー...一緒に出していましたね。

八幡・「この教室空いているし、塩見さんなんかちょっと作品持ってきて」とか言って、塩見さんも「はーい」と言って「ボーン」と展示して。笑

塩見・めっちゃ学部生の邪魔をしていましたね。笑

八幡・そこ(壁面)に高橋桃子さんの絞り作品があって、塩見さんのがあって、井上さんも出していましたよね。

八幡・それで、レベル高いじゃんってなって、第一回目のコースに与えられる卒展賞っていうのをいただきました。授賞式で、主任の大高さんが鏡割りの瞬間にうおおおって叫び、なんか盛り上がりの年でしたね。

成実・野村さんも賞とっていましたよね?

野村・とったかな?

八幡・このへんみんなとっているんじゃないかな。

野村・なんか賞もらいましたね。

八幡・学長賞?

成実・卒展でバックを何十個も出して、それがほとんど売れちゃって。

野村・卒展って大きいですよね。やっぱり作品が売れるっていう自信がつきましたね。

八幡・やっぱり卒展って大きいよね。ちょっと人生決めるみたいなところあるよね。

八幡・染織は特待生がやたら多いのですよ。返さないタイプの。

成実・そのあたり八幡先生がフォローしていた記憶があります。学生にちゃんとしなさいって指導をしていたイメージが。

八幡・私そんなにしてないと思っていたのだけど。成実先生の文章では、私がすごくきつく学生に当たっていたみたいな、むしろ、ほったらかしだったのではと思うけど。いかがですか?

野村・すごいひとり一人に丁寧に、文章も何回も見てくださっていたし、作品も同じように伸び代をどんどん、褒めてくれるから嬉しくなってどんどん作るみたいなのがありました。

八幡・野村さん、ドクターの時は苦しんだね。

野村・苦しみましたね。

八幡・成実先生も一緒に。巻き添え。

成実・僕はドクターのころの野村さんは指導してないですね。

野村・上村先生ですね。書くことに向かい合わなきゃいけない三年間だったので、すごくしんどかったですね。

西岡・どうでしたか八幡先生のご指導は?

塩見・学部生の頃に教室が私物で汚くて、ひとりの学生がなんとかしてほしいって八幡先生に訴えた時があって、八幡先生が「世の中なんて不平等なものよ」って言っていて。すごく覚えています。笑

一同・笑

八幡・その考えに変わりはないわ。笑

成実・塩見さんの学年はみんな活発だった感じがしますね。講評とかも。

八幡・活発やったー

塩見・みんなそれぞれ違うジャンルのことをしていたので面白かったです。

成実・お互いに負けないっていうか。

塩見・バチバチ...でもなかったですけど。笑

成実・負けず嫌いっていうか。

塩見・みんな負けず嫌いではありましたね。

八幡・あからさまに負けず嫌いやったな、みんな。笑 おかしいわ。笑

成実・西岡さんは八幡先生のゼミ生?

西岡・学部からずっと八幡先生ですね。

成実・染めはしてなかったよね? こういうアート(出品作品)のイメージなので。

西岡・染めですよ。

八幡・西岡さん、実はちゃんと染めていた時代があるのです。

西岡・大学院のときに手描き友禅を習いにいけって先生に言われて、それを習いにいって今の夫と出会っているので、結構染めはちゃんとやっているのです。

成実・そうなんだ。暴れん坊のイメージしかないから。笑 

八幡・でもこれ大学4年生の最後くらいじゃない?それまでは割ときちっとした抽象絵画的な。

西岡・ずっと浪人生を引きずっていて、3年ぐらい。

八幡・色彩構成みたいな。

西岡・抜け出すのが大変でした、受験を。

八幡・でも@cafeで展示したとき、ヴォイスギャラリーの松尾惠さんがゲスト講評会してくれて、西岡さんの作品をベタ褒めして。

西岡・へー全然覚えてない。

八幡・でも色彩構成の域ね。構図がいいとか色がいいとか。

西岡・私は原田さんがその時、ゴミ出して、それで松尾さんにめっちゃ怒られていて笑。隣人のゴミを展示したのですよ 笑

成実・すごいね 笑 そういう人いたんだ。

西岡・ゴミにキャプションつけて。そしたら松尾先生に「これはやったらいかん!」って笑 高木先生が自分の子供を守らないかんって感じでこうやって(立ちはだかって)、喧嘩みたいになって。笑

西岡・原田さんのこと大好きやったから。笑 
    
    

座談会Vol.2(後半)  猫町にて

成実・卒業生のなかには、染織の道を進んでいく人もいるし、染織のエリアから違うところに行く人もいるけど、皆さんは染織をベースに活動していますよね。染織で生きていくということについて聞きたいと思います。僕がいたころの美術工芸の学生は、どっちかっていうと作家的な傾向が強くて、あまり自分で売るという意識がなかったようでしたが、野村さんは、作品を売る方向に行きましたよね。

野村・そうですね。

成実・ものづくりで食べていくという決意が最初からあったわけですね。

野村・学生の頃から売ることに抵抗は全くなくて、それはやはり八幡先生とか院生の皆さんが実際にものを売っている姿を学部から見ていたということもあって。誰かの手に渡って使われることの方が自分の中でしっくりきたので、学生の頃からものを売ることに抵抗はなかったですね。今もそれがずっと続いているんですけど。

成実・「小商い」っていうか、お店を出したり大量生産したり規模を大きくするのではなく、自分の手の届く範囲でやっている、そういうところが現代の作り手らしいなと。

野村・そうですね。今ブランドはちょっとずつ大きくなっていって、知らないお客さんも増えたんですけど、企業として従業員を増やして大きくするっていう道ではなくて、自分の目の届く範囲で、メンテナンスを含めてのブランディングというのをずっと続けています。

八幡・規模は違うけど、一澤さんのとこもそれに近い感じじゃないですか?東京には進出しないとか。従業員さんも増やしてはいはらへんよね。あそこは成長しないっていうのがポリシーなのですよね。右肩上がりにはしない、絶対現状維持。

成実・同じ京都でも、モリカゲシャツは、東京に店を作ったり、時代に合わせて戦略を変えていったりしてますね。塩見さんはデザインよりというよりは、アートの方ですよね。学生時代からずっとそうですか?

塩見・学部時代からクラスに着物やっている子もいれば、デザインしたい子、工芸やりたい、絞り染やりたいっていう子もいて、学年が上がるにつれてみんなはっきり自分の道が見えていて。そんな中で、自分がデザインや工芸にいくイメージが全然わかなくて。そう考えていくと今の道という感じですね。

成実・塩見さんの作品には、あまり八幡先生の教え子っていう感じがないですが。

塩見・いや、すごくありますよね!

八幡・私もなんか近いかなって。

塩見・八幡先生の影響をすごく受けていると思います。

成実・どういうところが?

八幡・私が学生時代に作っていたものと似ているなあって気がするね。割と。

塩見・大学4回生の時に、一人で作った人形を合評に持っていって、先生たちがみんなこれ何ってドン引きしてしまったことがあって。

八幡・球体関節人形?

塩見・そのあとに八幡先生に一旦布に戻ってみてと言われて。それで、布も立体も作りたいけど、卒制は平面の色彩メインでやろうって決めましたね。

八幡・なんかヒューって離れていった時期あったよね。

塩見・毎回離れていって、最終的にやっぱり布に戻ってきていますね。

八幡・それがミックスされたのが大学院ね。

塩見・大学院の時も、どこかの企業に新しい布があるからそれで展覧会しようっていう企画がありましたよね。ネオテキスタイルでしたっけ?

八幡・フェルトね!

塩見・あの時、私もちっちゃい立体作って欲しいって言われて。

八幡・自立する布のオブジェ作ってっていう。

塩見・その時、八幡先生がみんなが30cm角に切ってもらった布を繋げた大きいタペストリーを作っていて。私は自分なりに布を立体にする方法を考えて、シワがよったら駄目と思いながら作っていたんですけど、八幡先生はシワ込みで作品にしていて、ぜんぜん違うなあ、こんなちっちゃいことやっていてはあかんねんやって思いました。その時、視点がパッと開いた感じですね。

八幡・塩見さんには、このフェルトで絶対立体作ってもらおって。そのときにパーンって閃いて、カラフルなフェルトでしたね。

塩見・染織にいるとシワを伸ばさないといけないって言われるじゃないですか。それを私は気にして立体を作っていたので、八幡先生のたるんたるんの布を見て、スケールの違いを感じましたね。

八幡・あれは「30cmに切って」って人に頼むけど、30cmって、理解しているようで人によっては29cmだったり、31cmになったり、ちょっと誤差がでます。誤差が出るってわかっていたから、30cmより大きく切ってしまった人を真ん中あたりに並べて、小さく切ってしまった人のものを周囲に並べて、全部縫う。そうしたら、きっと真ん中がふわっと膨れて周囲が沈んだような平面ともレリーフともつかへんものができるやろな〜って。誤差を形にするっていう実験でした。

成実・八幡先生のアーティスト的なところを引き継いだんですね。西岡さんはどうですか?僕の中では、アートっぽい作品を作る人だったんですよね。そのあとケイコロールっていう、デザインの方向に進んでいったのが意外だったんだけど。

西岡・そうですね。でも結構自然だったんです。ピュアアートみたいのをぎゅーってやって、なんだこの地面から浮いている人たちはっていう。このコミュニティーはなんだってなっていて。それで結婚したら、ベタベタに地べたに足を踏ん張っている人たちが近くにいるようになって。それが面白くなっちゃったっていうのは結構ありますね。

成実・時代劇の衣装を作る会社だっけ?

西岡・はい。衣装が専門なので、大変ですね。コロナで先が見えない状態で。時代劇もだいぶ減りましたし、やっていたとしても衣装にお金を使わなくなって。厳しくはあって、ケイコロールで稼がなくてはならないのに、私は展覧会のこととかに興味があって。

八幡・引き裂かせているなあ。

西岡・伝統工芸とアートの文脈って違うけど近いから、なんとかアートの文脈に自分も寄せていけないかなって。もっと純粋に。自己表現みたいなことがもう一回できたらいいのになあと思っています。

成実・ケイコロール、いろんなところで注目されているよね。

西岡・でもモチベーションがなんとか食べていくためやったから、ある程度死にそうじゃなくなるとモチベーションが下がったりとか。やりたいわけじゃなかったっていうか。食っていくために自分が持っているスキルを応用しただけだから。見るところから見ると、自己表現がしたい人がいいところに嫁にいって活躍できたね〜なんですけど、自分はそうじゃなくて、やれることをなんとかお金にしたのがケイコロールなのですよね。

成実・とはいえ、京都の染織業界も大変でしょう?

西岡・そうですね。それはそれで大変なこと。

成実・染織そのものが隘路に入ってる。美術大学の染織コースって、伝統の世界と、デザインやアートの世界とがある。伝統的な布地とか着物を作るのもいいけど、もう産業としてはほぼ終わってる。じゃあデザインやアートはどうなのっていうと、そちらの世界もどこへ向かっていくのか、よくわからない。そういう意味では、今染織をやることって、すごい大変に見える。

八幡・ぼろ儲けとか大儲けとかできる時代は来ないと思うのだよね。だけどやっぱり服着るし、お布団の上で寝るし、どこいっても布ってある。だから続くことは続くよね。なんらかの形で。どこかで。量は圧倒的に減るかもしれないけど。でも宮浦さんは、それを残そうとして全国行脚して支えようとしているわけだし。残るとこもある。どういう形で残るかなって感じ。

西岡・すごく単純に、技術をなくなることを危惧する人もいますよね。宮浦さんはそちらに近い気がしますけど。私、学生の時に八幡先生が「ま〜なくなるものはしゃあないやん」って言ったこと覚えています。

西岡・それがでも焼きついていて、その時は若干ショッキングだったのですけど。でもずっとそれは残っていて。確かにそれはそうだよなって思って。自分が染めの業界にいると、自分も知らないし、呉服屋さんも知らないような、その辺の遊び心ある職人さんが、考えた染め方、その人にしかできない染め方って何百とあるのですよね。それが何十年も前から、みんなバタバタ〜となくなっていって。あったことも知らんし、なくなったことも知らへん染め方が結構あるんですよ。私がイベントに出してたまたま知り合った男の人が、「うちの親父染めしているのですよ〜」って画像を見せてくれて。みたこともないような、確かにこのおっちゃんしかできへんやろうな〜ってのがあって。

成実・なるほど。

西岡・それを何パターンかみた時に、先生の言葉を・・・笑 でもやっぱり、残らんでもいいやつも結構あるんやろうなっていう。技術だけでいうと。もっと産業としてとか、システムがどうこうっていう話をしなきゃと思うんですよ。

八幡・私が言ったのは、逆の意味で、残るようなものを作れば残るってこと。

西岡・そうやと思います。そのおっちゃんが残す気があったかだろうし、周りを巻き込めたかだろうし。

成実・西岡さんはそういうものを見ながら、アートというか表現の方にもう一回行きたいっていうことですね。

西岡・そうなんです。恥ずかしながら。

八幡・でもアートも結構地盤沈下よ。だからどっちかって決めるのは、逆に危険やと思う。染織は、両足でいいやんって。

西岡・ニッチですよね。ブルーオーシャンやと思います。がっつりアートはレッドオーシャンやと思います。

成実・10年前、5年前にはアートを売って儲けるみたいな幻想があったんだけど、今ってアートもなあっていう感じもするじゃないですか。そういう意味では、染織っていう、もともとアンビバレントな存在だから、かえっていいのかもしれない。川野さんはどうですか? 染織に対する想いとか。

川野・私の染織との関わりは良く言えば流動的に変化していると思っていて。そういえば卒業してすぐに八幡先生と京都国立近代美術館のカフェで待ち合わせして、決意のようなものを聞かれました。作家としてやるのねっていう。その会話だけ覚えています。作家としてやっていこうと思っていたんですけど。

成実・染織作家という生き方ってどうなの?

川野・この間、近美の「モダンクラフトクロニクル」を見てきました。明治時代の美術工芸からファイバーアートまで膨大な量が展示されていて。さて、ここから未来ってあるのかなって思ったとき、私ちょっと描けなくて。私も一旦は染織でアーティストになろうってやってはみましたけど、美術とのヒエラルキーは避けられない。染織というジャンルだと、学芸員さんとも話ができないことも経験して。素材から出発している時点で美術にはなり得ないんじゃないかなって思う。

西岡・それちょっとプチ結論ですよね。

八幡・今日の確信やね。

成実・やなぎみわさん的な、自分の世界を探さないとコンテンポラリーの方にはいけないじゃないですか。

川野・そうですね、やなぎみわさんは市立芸大の染織ご出身、でも写真ですよね。

八幡・「素材を限定ながら現代美術と言えるか」論っていうのは10年ぐらい前に盛んにあって、まず事前に素材を限定している時点で、現代美術じゃないと。現代美術の文脈では、いつでも同じ素材からっていう発想はしないよね。それは割と結論っぽいものが出ていてね。「モダンクラフトクロニクルの後に未来はあるのか」っていう問いに答えると、未来は無い。未来がある展覧会ではなくて、過去のおさらいの展覧会で、いかに工芸が美術の分野に進出してきたか。その業績を讃える展覧会で、次のことはあななたち考えてね、という。美術に門戸が開けて、入って世界はどうだった?と聞かれて、結構息苦しいものでしたっていうのが私たちの答えなのじゃないか? じゃ、息苦しさを感じた私たちは次どこへ羽ばたいていくのか、という課題が課されていて、今、みんな悩んでいる。

川野・鑑賞される対象ではなくて、野村さんがおっしゃるように、使われてなんぼやなと。人に触られて、擦れて、古くなって。時間軸を見る方が染織は楽しいなと思って。今はアート作品を作ってないです。

成実・かつては日本的なものづくりの伝統が大きくあって、芸大もその伝統の上にあったと思うんですよ。ものづくりの伝統って工芸や職人の世界だからものを作る。けど、グローバルなアートの世界ってものを作らなくても、コンセプトを作ればいいという方向で、日本の美術教育も今はそっちに寄っている。職人みたいにものを作っていても仕方ないよね、みたいな空気がある。デザインも同じで、いまやPCやAIで作る時代だから、デッサンしたり、線を引いたり、作る技術を身につけたりしなくてもいい。そうするとコンセプトワークやソーシャルデザインみたいなことしか残ってないわけです。「日本のものづくりの伝統」が21世紀に入って非常に大きく変わっていくなかで、先生も確信を持って教えられなくなっている。かつては俺の背中を見ろっていう世界があったけど、もうなくなっていて、どうやっていくのかを各自が見つけていかないといけない。八幡先生はそのところをサバイバルしてきたけど、若い世代の皆さんはこれからどうするのっていう。

八幡・私が教育の中でできたこというと、一つは問題を投げかけられたこと。ちょっと染織うまくいってないよっていうこと。私の背中をみろというスタイルはもう絶対無理だなと思っていた。もう一つは、ものを堂々と売っていくこと。でも、ものを売っていくにしても哲学がありつつ売るみたいな。たくさん売るとかデザインのいいものを売るとかそういうことじゃなくて、いかに考えて売るか。そこに共感する人が野村さんのところによって来ていると思う。ものも買うけど、考え方を買うっていうか。そう考えるとまだまだ発見できてない生き方ってあると思うよね。染織だからこそ。