「愛する工芸へ」

「作品のイメージは」と聞かれることが多いのですが、イメージ(表したいこと)は私の作品ではあまり重要ではありません。なぜかというと、それは染織(工芸)の特質を理解してもらわなければなりません。

染めも織りも素材や技法が多様で工程も長く複雑です。つまりそこ(素材や工程)に合わせないとモノはできません。表出したいイメージが先にあっても、染めと織りの素材や技法ではできないことや、予想外の不合理が起こります。かつて、私はここで悩みました。なぜなら芸術は「まずイメージありき」であるという教育を受けてきましたから。

でも染織という領域の特性を知れば知るほど、「イメージ」以外に大事なものがあるのではないかと思うことが多くなりました。たとえば「機織り」は、かつては農家の女性の農閑期の手仕事でした。丹波布や河内木綿など地域の名前がつく織物があるように、その地の庶民のものづくりでした。ありあわせの糸で少し工夫して織られた日常のものです。そこには何かを表現したいという先行するイメージはありません。

とはいうものの、私が美術大学に入学した40年前は、工芸というジャンルが芸術をめざしていた時代でした。京都五条坂で茶碗を焼いていた職人さんの中から、「表現としての陶芸」を目指す前衛集団が現れました。また繊維を用いた「ファイバーアート」という造形も生まれました。こういう作家たちのおかげで、日本の工芸はヒエラルキーを払拭してきたわけで、その功績は大きいと思います。

その一方で、工芸がどんどん芸術化してゆき、アートとしてのパスポートを得た工芸に対し、「かつての工芸品が美術という制度の中に取り込まれ美術館の中に収まっている姿は痛ましく見える」と警鐘を鳴らす評論家も現れました。

こういう半世紀の流れを経ての今です。ここで再び話を戻しますが、私はいつからか「イメージ」とか「自分を表現する」という動機は捨てることになりました。そんな動機は私には無いと気づいたからです。そのかわりに「布を染める」ことでできる豊かな世界を作っていこうと思いました。ではその豊かさとは何でしょう。

答えとして「多様性」「汎用性」という言葉を挙げます。バラバラなこと、しぼり切らないこと、どうにでもなること、です。「染め」は、伝統、最先端、アート、工芸、デザイン、インテリア、ファッションに展開される領域です。アートと日常品、それらがそう遠くないと気づくのに30年かかりました。境界は色分けされながらも緩やかに続いている、そういうありかたをずっと思い描いていたのだと思います。